螺旋と蒼穹: revised

 柔らかな淡い色合いで統一されたバスルーム。
 浴槽の中で、零はゆったりとからだを伸ばしていた。
 少し熱めの清冽な湯に身を浸していると、出撃の後で硬く凝った筋肉の末端にまで、ようやく血流が甦ってくるような気がする。自分の部屋のそれよりも格段に広々とした浴室を彼は、悪くない、と思っている。
 彼は待ちぼうけを食っていた。
 帰り着くなり、部屋の主からタオルを投げて寄越された。そして、
「腹、減ってるだろう。先に風呂に入っておけ」
 答える間もなくバスルームに押し込まれた。
「後でいいものを持っていってやるよ」
 そう言って男はキッチンの向こうへ消えた。
 夕刻、雪風で帰投した後。零がブッカーのデスクに出撃レポートを提出し、踵を返したのと、その背中に呼び声が掛かったのはほぼ同時だった。この後暇なら家に寄って行け、と言う。良い酒が手に入った、あるいは、美味いものを食わせてやる、というのが彼の誘いの常套句だった。断った回数は片手で足りてしまう。そうしてのこのことついて行ってしまう自分も自分だと思いながら、零はやはり今日も彼の相伴に預かるべく、連れられるまま、官舎の部屋を訪れたのだった。

 コツコツと、鈍い音が扉を叩いた。少しの間があって、ドアが開く。片手に薄い大ぶりの皿を載せ、同じ手首には透明のアイスペールを提げたブッカーが立っていた。器用なことにもう片方の手にはフルートグラスを二つ持っている。どちらの手でノブを回したのだろうなどと考える間もなく、待たせたな、と皿を差し出された。受け取った皿の上にあるものは、零の目にはごくありふれた食材に映った。ただし、1センチほどの厚さにスライスされたそれを見て零が最初に思い浮かべたものは、ここフェアリイではめったにお目にかかることのない純日本風の食材「蒲鉾」――だった。しかし、美しい赤色のとろりとしたソースの存在に、零はその第一印象を思いつくままに口走る寸前で止めた。それに、たとえ本当にこれが蒲鉾の類いだったとしても、凝り性のブッカーのことだ、材料を揃えて一から作業したに違いない。まあさすがにそれはないだろうけれど、何か言うのはとりあえず食べてからだ、と零は、らしからぬ細やかな思考を巡らせながら、皿の上を凝視していた。
 そんな零の内心をよそに、ブッカーは、ボトルと氷が無造作に突っ込まれたペールを床に一度降ろし、零が眺めている皿はそのままにし、グラスを手渡してきた。濡れるぞ、と零が言ったが、彼はそのままバスタブの縁に腰を下ろす。彼が自分の分のグラスを浴槽の縁に慎重に置いている間に、零は湯の中に浸っていた腕をバスタブの外へと伸ばし、アイスペールからボトルを掴み出した。ラベルを確認する。英語ではない表記の文字に、シャンパーニュ、とあることぐらいは解った。そして、銘に綴られているのはおそらく、眼前の男と同じ名前。
「……『ジャック』?」
 ブッカーは、まあ待て、と零の手からボトルを取り上げると、彼の見ている前で、そっと栓を抜いた。その仕種はいかにも手慣れたそれで、溜息のような発泡の音が、すっと、聞こえただけだった。
 かつて零は、シャンパンやスパークリングワインと言えば派手に音を立てて栓を抜くものだと思っていたが、ブッカーの手並みを何度か見ているうちに気付いたことがあった。祝い事ならともかく、発泡を楽しむはずの酒を、泡がボトルの口から溢れてしまうほど派手に勢い良く開けてしまったのではその楽しみも半減してしまうだろう。浴槽に掛けた姿勢のまま腰を捻ると、ブッカーは零が手に持ったグラスを金色の液体で満たしてやった。泡がパチパチという静かで小気味良い音を立てている。弾けた泡が硝子の縁を飛び出して、フルートグラスを持った指に跳ね返った。一口含めば泡が舌の上に爽快感をもたらした。ほど好い酸味が口内を痺れさせ、芳醇な味わいがシナプスを刺激する。端的に言えば、美味かった。気に入ったか、と訊かれ、零は素直に頷いた。
「さて、ではおれの新作を披露するか」
 だがブッカーはすぐに軽く舌打ちして「カトラリーを忘れた」と腰を浮かせかけた。それを、零は一言で制した。
「どうせ濡れた手だ。これでいい」
「おい待て――」
 ブッカーが止める間もなく、零の指先が、皿の上の一切れを摘み上げた。ブッカーはやれやれ、と苦笑し、彼の好きなようにさせてやる。
 最初の一口を含んだ瞬間、零は何気なしに料理人の方にちらりと目を遣った。刹那、背筋をぞくり、とえも云われぬ感覚が走る。ブッカーの、濃い金褐色の睫毛の奥から、蒼い瞳がこちらを向いていた。零がものを食べるとき、この男はよくこういう目で彼を見ている。
「……うまいな」
 一口目にして、零が思わず呟くと、ブッカーは満足した様子で目を細めた。
「例によって味見をしてないからな。少し心配だった」
 己の料理の腕前に少なくない自信を持っているらしいブッカーは、最近ではレシピを見ながら料理をするということがめったにない。勘と目分量を信条と決めたのかどうかは不明だが、「面倒だ」の一言で、計量すらしない。たまに失敗することもあるようだが、彼の作る塩味甘味辛味などの匙加減は、幸いにしてほぼ零の好みに合致していた。
 一言とはいえ感想は伝えたのだから義務は果たしたというつもりか、それきり、零は、無言で次の一口、また一口を、普段からは考えられないほど丁寧に味わっていた。食べるというと、ただ必要な栄養素を摂取するためだけの合理的な、つまり味気ない食事がほとんどであったと思われる彼に、複雑で微妙な味を愉しめるだけの心の余裕が生まれたのであろうことを、ブッカーは素直に喜んだ。それをもたらしたのが自分だと思うと感慨深いものすら覚える。食材の選択から、時には面倒に感じることもある調理の手順ですら、美味という快楽へ繋がるばかりでなく、五感を駆使して、自分が「生きて」いることを実感できるのだと思えば楽しめる。ブッカーはそう思っていた。今はそこに、愛しい相手の喜ぶ顔を見ることのできる数少ない手段という、少々不純な動機が加わっているのだからなおのことだ。
 咀嚼し、舌の上で味わい、嚥下した後も、柳眉の間にわずかに皺を寄せて味覚の余韻に浸っていた零は、ブッカーが複雑な面持ちでこちらを見つめているのに気付く。難しい顔をしていたことに思い至り、これでは彼が誤解するかもしれないと、零は態度を改めることにした。
「……うまいものを食べると、険しい顔にならないか?」
 そう言って零はブッカーを真っ直ぐ見詰め、ほんの一瞬ではあったが、綺麗に微笑んで見せた。
「あ……ああ。気に入ったのなら、良かった」
 彼の笑顔で報われるとは思ってもみなかったブッカーは内心慌てた。そして動揺のあまり「毎日おれの為に食事を作らせてくれ」と支離滅裂なことを危うく口走ってしまいそうになり、何とか思いとどまるのだった。
 気を取り直すべく軽い咳払いをして、今日のは自信作だ、とブッカーは話を料理に戻した。
「さて坊や、何だか判るか?」
 零を見据えたまま、ブッカーが問う。これもいつものことだった。彼が、自分の料理に使った食材を訊ねるのは、食に関しては人並み外れた無関心を誇る零のスタンスを矯正しようという義務感にでも駆られているのかもしれない。そのことには当のブッカー本人はまだ当分気付きそうにもないのだが――ともかく、この種の問いに真面目に向き合うことは料理人に対する礼儀だろうと、訊ねられるたびに零は至極丁寧に味わい、素直に答えを返すようになっていた。そして今、舌の上に載せた瞬間、零は無言で第一印象を修正していた。この味は……たぶん、そうかもしれない、と。
 思ったままを伝えると、ブッカーは、よく判ったなと大袈裟に感心してみせた。零が、あの短時間でよくこれだけ手の込んだものをと言えば、そうでもないさと返される。
「なに、エビと白身の魚をプロセッサで挽いて、ファルスにして型に詰めて蒸しただけだ。いわゆるテリーヌというやつだな。略式だが……。ソースは甘めに仕上げたが、おまえの口に合ったのなら良かった」
 蒲鉾も確か魚の身を蒸したものではなかったか、それなら最初に思ったこともあながち間違いではなかったのかと零は思ったが、こだわるのは止めた。美味いものは美味い。それで充分だ。ソースは、濃いトマトの味がした。
 好物なら見た目がどうでも判るだろうと思っていたが、さすがだな、とブッカーは言う。
「好物だって? おれの?」
「おまえ、前に言っていただろう。エビが好きだと」
 この前行ったチャイニーズの店で、おれの分まで食っちまったのを忘れたのか、などと蒸し返されて、むっとしたのも束の間、零は感心する。彼は本当に、おれの言った一語一句をよく覚えているものだ、と。今の話も、言った当人はけろりと忘れていたのだ。しかし、自分のことを知られ、記憶に留め置かれてゆくのは悪い気分ではない。
 彼にそうされるなら――むしろ、快いとすら思う。
「おれの好物で機嫌を取って、あんたと同じ名前の酒を飲ませたってわけか」
 くっくっと喉で笑いながら言う零に、ブッカーもまた人の悪い笑みを浮かべて返す。
「意味深だろう?」
 この男は最近口説き方にも手が込んできた、と零は思う。わざわざ手間のかかる料理を拵え、酒選びにも抜かりがない。その上、このお膳立てをするのが愉しくて仕方がないのだというそぶりを隠しもしない。
「釣った魚に餌をやらない男と思われてはかなわないからな」
 ブッカーの言葉の端々に徐々に滲み始めた色が、湯気が薄く立ちこめる狭い空間を否応なく染めていくような気配の中、グラスに口をつける様子に注がれる視線が痛い。零はそんな空気にいつも落ち着かないものを感じていた。
 最後の一切れを摘んだ時に、指が皿の上に広がったソースの上を掠めた。そのまま口に運び、指についたそれを舐めようとした時、ブッカーが一瞬早く零の手首を捕らえた。
 掴んだまま、顔が近づく。口唇の間から赤い舌が覗いたと思うと、指先が温かくぬめった感触に包まれた。彼の、白い歯の合間に見え隠れする粘膜の色は、酔いの廻り始めた目には刺激的だった。
「なんで……おれの手を舐める」
 口から出た声は、零自身が後から思い返せば失敗した、と後悔するほど、掠れて柔らかい声音だった。手首を解放してやり、ブッカーは言う。
「おれが舐めているのはお前の手じゃないぞ」
 わずかな沈黙、そして。
「――ソースだ」
 彼が扉を開けて入ってきたその時から、情事はとうに始まっていたのだと、それがようやく解ったものの、ここで動揺を見せるのは、生来の負けず嫌いにとっては癪に障った。相手がその気ならこちらもせいぜい愉しむまでだ、と零は悪戯を仕掛ける。長い指先で皿に残った鮮やかに赤い色のソースを掬い、彼の口元に差し出してみる。
 形の良い眉を片方ぴくりと持ち上げ、ブッカーは再びその指を躊躇なく咥えた。口中に甘酸っぱい香りと味が広がる。零の指に絡んだソースはわずかばかりだったので、すぐにそれは全て拭い去られてしまう。しかし、ブッカーの舌には極上の甘さが残ったままだった。操縦桿を握ることが常であるのにもかかわらず、その手は、フライトグローブに守られているためか、男性の手とは思えないほど美しい。その真っ直ぐでしなやかな指は、ブッカーが彼のからだのパーツの中でも特に愛する部分だった。その指を深く咥え、わざと音を立ててしゃぶる。零とてただ愛撫に受ける側に甘んじるつもりはなく、味蕾の凹凸を確かめるように、触れてくる柔らかい肉を指先でまさぐった。蒼穹の色の目がすうと細められる。
 ああ。またあの眼だ――と零は思う。
 彼の手に掛かり、今己の腹を満たしている食材がそうされたように、これから自分が捌かれる――そんな想像が零の脳裏を過る。

 空腹に入れたシャンパンの酔いが、血流に乗って全身を駆け巡っている。瓶はとうに空になっていた。ふわふわとしてからだに力が入らない。眼前で、ブッカーが着ていたものを乱暴に脱ぎ捨てるのを、零は焦点のぐらつき始めた目で見ていた。彼が、有無を言わさず湯の中にからだを滑り込ませてきた時も、抗いすらしなかった。
 片方の膝で零の股を割り、反動で持ち上がった片足を担ぎ上げると、浮力も手伝って、零のからだはいとも簡単に彼の上に乗せられてしまう。大きく波立った拍子に、湯が浴槽の縁から派手に溢れ落ちるのも意に介さない様子で、ブッカーはこの窮屈な場所での交歓を愉しむことを決めたようだ。
「非日常的な場所でのセックスは興奮するだろう?」
 馬鹿言うな、そんなのはあんただけだ、と言い返そうとするが、水の中では浮力にも裏切られる。ブッカーは、軽々と零を自らの腿に跨るような格好にさせると、その腕で零を抱き寄せた。抱いた腕を締めつけては緩め、また締めつけては緩めるということを繰り返す。零は、体重の全てを股間にかけたまま、前後に緩やかに揺らされることになり、思わず呻く。塞がれた口唇の隙間からくぐもった声が漏れた。不意に強く押し付けられれば、跨いだ彼の腿を覆う柔らかく濃い体毛の感触を、内股の薄い皮膚や、脚の付け根にあるすっかり過敏になった器官でまざまざと感じさせられた。ブッカーは零の肋骨の辺りを締める腕はそのままに、両の掌を腰からさらに下へと滑らせていく。そして零の尻を両手で掴み、長い指をその谷間に這わせてくる。不穏な気配を匂わせる指先の悪戯から逃げようと零は身を捩るが、目の前にある男のからだに遮られるだけだった。零は、触れ合わせていた口唇をもぎ離すようにして、眼前にある、汗の珠が浮かび始めた逞しい首筋に額を乗せた。水面から上る湯気より熱い、彼の荒い吐息が零の耳朶にかかる。もう駄目だと零は思う。痺れるような興奮が、密着した股間から爪先までじわりと広がっていく。はあ、と思わず口から息が漏れる。
「こんな……狭苦しいとこで――」
 だが、口では良識を訴えてみても、肉体はとうに愛しい男の抱擁に悦んでしまっているのだった。現に、零の口から出た言葉は、熱っぽい緊張を含むそれだった。湯に溶かし込まれたバスキューブの芳香にも惑わされることなく、零の嗅覚は久しぶりに嗅ぐブッカーの匂いを敏感に感じ取っていた。それもまた、零のからだを引き返せないところまで昂らせた要因の一つだった。困惑する零を見るブッカーの目は憎らしいほど愉し気で、それに気付いた零はせめてもの意趣返しのつもりで、顔を埋めた首筋に歯を立ててみせた。
 その瞬間、ブッカーが身を起こし、体勢が反転する。零の方がブッカーを見上げるかたちになった。一回りは大きいからだに押し潰されそうな予感に思わず身構えるが、無論そのようなことにはならず、ブッカーは寸前で己の重みを、バスタブの縁にもたせかけた、零の頭の両側に腕を付く形で支えた。おまえも燃えてきただろう、とわざと下卑た言葉を紡ぐ低く掠れたブッカーの声が、骨の髄まで届く。刺激を待ち焦がれていた部分を掴まれて、零は身をわななかせた。そして、彼の大きな掌が張りつめた欲のかたちを確かめるように柔らかく包み込み、括れをなぞる親指の腹が、蕩けかかったその頂を捏ねるように愛撫する。
 健康な成人男性であれば拒むことなどできないであろう、絶妙の強弱と間隔で与えられる刺激に、零は切なげに顔を歪めた。その表情だけで、ブッカーは股間に熱が集まるのを覚えた。零の、完全に頭を擡げた部分を指先でさらに煽り、水の中でも判るぬるりとした潤いがそこに生まれると、さらに今一度空いた方の腕で傍らの零の肢体を抱き締め、彼の首筋を、耳朶を甘く噛んだ。
「……いや、だ、湯が……」
 幾度となくからだを繋いだとはいえ、狭い浴槽で行為に及んだことなどかつてなく、わずかな不安と背徳感から来る迷いが零の瞳を曇らせていた。このまま上りつめさせられれば、バスタブの中の湯を汚してしまうであろうことも耐えられなかった。性急に追い上げられ、情欲に溺れそうになりながらもそんなことを心配する零が、ブッカーにはたまらなく愛しく思える。
 だが同時に、零のその端整な顔が羞恥と快楽の狭間で歪むさまを、理性の箍が激しい逡巡の末に外されるさまを見たいという昏い欲望も、彼は自覚していた。ブッカーは、自分の声が零の理性に及ぼす力を知っている。だから、手を貸してやるのだ。ことさら低く、淫らな甘さを含ませた声で。
「このまま……見せてくれないか、なあ――零?」
 鼓膜を震わせる、官能的な獰猛さを孕んだ囁きに、零はそれ以上堪えることができなかった。 酷く甘い衝撃がからだの奥深くを走り抜け、陥落が近い。
「ん――あぁ!ジャッ、ク……!」
 切れ切れに呼ばれた己の名前に、下腹部に感じる疼きが大きくなる。それに気を取られたのもつかの間、ブッカーは掌で零の限界を察し、その瞬間に、眼前でわななく口唇を塞いだ。
「……っ――!」
 歓喜の果てに喉から迸る甘い悲鳴を口移しで奪われ、内腿を引き攣らせながら、零はからだを二度三度、大きく震わせた。水面に小さな細波が立つ。
 掌に包まれたまま遂情を果たした彼の熱は、温くなった湯の中で、一際熱くブッカーの掌を濡らした。

 柔らかなキスが裸の肩に落とされると、達したばかりで過敏になった肌にはそれすらくすぐったいのか、 零は避けるように身を捩った。片手を洗い流している男の姿を横目に、整わない息を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。罵りも非難も何もかもが、朦朧とした意識の底で綯い交ぜになって言葉にならない。
 零は、押し退けようと手を置いた、ブッカーの肩が少し冷えていることに気付いた。零がからだの半分以上を湯の中に沈めているのに対し、ブッカーはそれに覆い被さる不安定な姿勢でバスタブに身を割り込ませているのだ。おまけに、彼が入ってきた時点で相当量の湯が溢れ流れている。浴室内にもうもうと立ち込めていた湯気も、溜めた湯の温度が下がると共に薄れていた。それに気付かないほど夢中になっていたのかと思うと、零は行為そのものよりも、その事実の方に羞恥した。
「あんたのせいで……湯冷めしそうだ」
 先刻の情動を潤んだ瞳に滲ませたまま、それとは不釣合いな愛想のない口調で呟くと、ブッカーはその眼を覗き込むようにしながら、まだ息が整わずに時折震える背を労るように撫でていたのを止め、溜息混じりに嘆いてみせる。
「つれないな。暖めてはくれないのか」
「……」
 零は返答の代わりに蛇口に手を伸ばし思い切り水栓を捻った。熱い湯が勢いよく迸り出る。見る間に空気が白く霞んでゆく。
「……調子に乗るな。ジャック」
 これ以上の無駄口は許さないとばかりに、零はのしかかる男の腰を両の腿で一度きつく挟むと、そのまま両膝をバスタブの縁に優雅に掛けた。
「風邪ひいても……おれのせいにするなよ」
 零の上気した顔に浮かんだ婀娜っぽい笑みに、そしてこの上ない媚態に、ブッカーはごくりと唾を飲み下した。その眼前で、艶を帯びた榛色の瞳が陶然と閉じられる。
 呑まれる――と思った。
 そして、何度目になるのか解らない、いつもの感情をブッカーは認めるのだった。惚れた弱みというそれを。不変の数を名に持つ彼に、自分は、絶対に勝てはしないのだということを。
 恭しいとすら形容できそうな慎重な愛撫に、零は閉じた目をうっすらと開けた。己の欲の深さに呆れつつも、蜜色の髪に滴る汗に満足感を覚える。
(――そうだ。あんたはおれだけ見ていればいいのさ)
 緩慢に押し入って来る、自分のものとは違う温度をからだの内に感じながら、零はその白い頸を仰け反らせた。

改装前に置いてたSSに少々手入れ。原型はたぶん05年あたり。