The SLEEPING BEAUTY

基地内オフィスの机上に山と積まれた書類の処理をようやく終えて、三日ぶりに官舎の自宅へと帰り着く。時刻はすでに夜明けまで数時間もない。 今日こそは仕事に一段落つけて帰宅すると宣言し、秘蔵のボトルを開けるから待っていろと伝えてはいたが、さすがにこの時間になってしまっては、宵っ張りのあいつもとっとと寝ている頃だろう。そうでなくても、彼がおれの帰りを待って寝ずの夜を過ごすとは思えない。第一、確かな約束をしたというわけでもない。よって忘れられている可能性も高い。しばらく待っておれが戻る様子がなければ、さっさと帰ってしまう、あれはそういう奴だ。
だがしかし、彼のいつもの気まぐれがおれの都合の良い方向に働いていないとも限らない。そんな往生際の悪い希望的観測に支配された思考を延々と巡らせながらトラムに乗り込む。こんな時間になってしまっては、基地の仮眠室で寝てから帰宅しても同じことか、と一瞬考えたが、 それでもやはり、自宅のベッドで横になりたいという誘惑には勝てなかった。何より、リノリウム敷きの冷え冷えとした部屋で独り寝るよりも、今すぐ逢いたい、相手がいるのだから。

地上はそろそろ初夏を迎える。 フェアリイの空の下は、踏みしめる地表も、からだを包む大気も酷く乾いていて、突き放すような険しさを見せるかと思えば、心地よく包み込む気配を見せる。 彼の纏う空気もそれとよく似ている。その気まぐれに心乱される。そんなどうしようもない渇望感と四六時中を共にした毎日を、年甲斐もない、と笑わば笑え。
ようやく自覚した。おれは、自分で解っていた以上に、彼に飢えていたらしいということを。

頭を冷やすために最寄りの駅の一つ前で降り、居住区内の数ブロックを徒歩で急ぐ。この状態で真っ直ぐ帰宅したのでは、奇跡的に彼がおれを待っていてくれて(本人には待っているという自覚は無いのだろうが)そして待つのにも飲むのにも飽きた末にさっさと眠っていたとしても、強引に目を覚まさせて不埒な行為に及んでしまいそうだったからだ。疲労はピークに達すると根拠のない下世話な欲望に転化することもあるものだ。「おれをあんたと一緒にするな」と揶揄されたのは、いつのことだったか。ともかく、彼の休息を妨げるのは本意ではない。顔を見せてくれるだけでいい、否、しかし、髪に、頬に触れるくらいは許されるだろうか―― 頭を冷やすのはとかく難しいものだ。

足早に歩道を歩いているうちに、伸縮性と機能性に乏しい着衣が窮屈で息苦しくなってくる。首元を締め上げるタイはオフィスでとうに外していたし、生地の硬いシャツは上から二つめの釦まで開けてしまっている。式典用の礼服なんぞ糞くらえ、だ。やはり向こうで着替えてくるべきだったかと、後悔の念に駆られる。仕方がない。ここまで帰りが遅くなるはずではなかった。どうせ明後日もこれを着なくてはならない予定なのだ。夕刻まで、ひとしきりお偉方の相手をした後、デスクに残った数枚の書類を片付けるのにわざわざ着替えるのも面倒だったので、無精を承知で礼服姿のままオフィスの机に向かっていた。その結果がこれだ。こまごまとした仕事が見る間に増えていき、結局着替える手間も惜しんで基地を飛び出してくる羽目になった。
暗証番号のキーを押すのももどかしく、エントランスを抜け、目指す扉へと向かう。どうにも肩が凝るような気がして、ジャケットは歩いている途中で脱いで手に持っていた。通路を大股で進み、扉の前に立つ。壁面に据えられたパネルのキーに触れ、ロックを解除する。 開いた扉の隙間に身を滑り込ませると、センサーが反応して廊下の照明がふわりと点いた。室内からは物音一つしない。時計を見る。四時十分前。
ふと、ベッドルームのドアが数センチだけ開いているのに気が付いた。
ささやかな望みは叶えられていたらしい。遠慮を知らない客人はそこにいた。愛しい相手はピロウに顔半分を埋め、安らかな寝息を立てている。ブランケットは足下に押しやられ丸く山を造っている。こいつは見かけによらず寝相が悪いのだ。おれはベッドサイドの床に静かに腰を下ろし、少し上から彼の顔を見下ろす。相変わらず静かに眠るやつだ。本当に息をしているのか心配になったことも一度や二度ではない。
枕を抱きかかえるようにして眠るのは彼の癖だ。あまり深くない眠りを享受するその姿から、おれはいつも猫科の獣を連想する。
全く。また生乾きの髪のままで横になっている。濡れ髪で空調の効いた部屋で寝るのは体調を崩す元だと、いつも小言めかして言っているというのに。「あんたはおれの母親か」と言い返されて、却って逆効果になりはしないかとは思っていたが案の定だ。目が覚めたら、ひどい寝癖を鏡で目の当たりにして眉間に皺を寄せる様子が目に浮かぶ。
頬にひとふさかかった艶やかな黒髪をそっと掻きあげると、室内の暗さに慣れた目には眩しく思えるほどの白い頬が現れた。衝動的に、だがあくまで気配を感じさせないよう努めつつ、細い顎のラインに指を滑らせてみる。
指の先の、たぶん一センチ四方にも満たない、けれど確実に彼の体温を感じた部分から、夜風に冷えた身に熱が戻っていくような気がして、思わず苦笑が洩れる。
それは例えて言うならば、乾いた砂に水が音も無く吸い込まれていくような。
我ながら笑いたくなる程の単純さだと思う。
冷えた指だと驚かせるかもしれないから、と己に言い訳をする。何となく疚しいものを感じて、誰が居るわけでもないのというのに、周囲に視線を巡らしてしまう。今覚醒されようものなら、容赦ない罵倒の言葉と共に今後一ヶ月は触れさせてもらえないかもしれない、と頭のどこかで理性が警告を寄越してくる。けれど、
(待たせて済まなかった。おまえの気の済むまで謝ろう)
(頼むから、どうかそのまま、眠っていてくれ)
(どうか、少しの間だけ、おれのすることを黙って許してくれないか)
どれも、言葉にはならなかった。

顔が離れるより前に、おれの頬に彼の睫毛の震えが伝わった。至近距離にあった唇から、本当に微かに、自分の気のせいではないかと思うくらい微かに、小さく溢れた笑みがおれの頬を撫でたのだった。
「……ジャック?」
未だ眠りの淵を覗いているが如き彼の口が寝惚け半分に紡いだおれの名前は、寝起きの彼にはよくあることだがその発音はおよそ英語と呼べるようなものではなく、おそらく日本語のアクセントで呼ばれた名前は、一秒後には空気に溶けて心地よくおれの肺を満たしていく。
奇妙な幸福感と共に。
ゆるり、と瞼が持ち上がる。まだ焦点の覚束ない瞳が一瞬視線を彷徨わせ、それからおれを捕らえる。
それはあたかもひび割れた大地を潤す慈雨を浴びたに等しい瞬間だった。
なのにその時、あいつの口から出たのはこんな言葉だった。
「……知ってるかジャック。こういうのを、強制猥褻罪って云うそうだ」
何が悲しくて、憎からず想う相手に性犯罪者呼ばわりされなければならないのか――あまりにあまりな言われように呆然、もとい憮然としていると、奴は枕に突っ伏して肩を震わせている。少し間があって、ようやく抱きかかえた枕を離して、それでも飽くまで頭は枕に乗せたままで、ベッドサイドに背中を丸めて座り込んだおれと目が合うと、けしからんことにまた、口唇が笑いを堪える形になった。
「冗談だよ。あんたがあんまり珍しい格好してるから……」
「ふむ。男前が上がったか?」
「どこの衣装倒錯者が夜這いにきたのかと思ったんだ」
「ここはおれの家だ!」
ブランケットを蹴り落として、未だ笑いを止めないしなやかなからだに馬乗りになる。
「しかもおまえ、ずいぶんと飲んでいるようだがいったいどの瓶を開けてくれた?」
「安心しろ。約束の、あんた秘蔵のやつには指一本触れてない」
考えようによっては物騒な答えだった。向こうの部屋がどういう惨状を呈しているのか、想像するだに恐ろしい。
それにしても、押え込まれ下半身の自由を奪われたままでも、おれを可笑しそうに見上げながら仰のかせた角度は無防備そのもので、眠気と疲れで妙な興奮状態になっていたおれは、このまま勢いに任せて彼を抱いてしまおうかとも思った。
しかし、我ながら情けない話だが――今は性欲より睡眠欲が圧倒的に勝っているようだ。
その時、彼は自分の上に跨ったままでうなだれたおれを思い切り抱き寄せた。
「うわっ!」
不意打ち以外の何ものでもない彼の突然の振る舞いに、均衡を崩したからだは彼の隣に倒れこむ。おれはちょうど、彼の左胸に顔を埋める形になった。
「あー、その、零……?」
「寝ろよ、ジャック」
先刻の騒ぎでおれが蹴飛ばしたブランケットを器用に胸元まで引っ張り上げながら、彼は言う。そして、まだ良く状況の飲み込めていないおれの額にひとつ、柔らかい感触が降ってきた。
「あんたが寝るまで、こうしててやるから……」
胸から直接響いてくる低めの声は快い眠気を招く。互いに馴染んできた体温が気持ち良い。おれはいわゆる、腕枕というものをされている状態だった。
もしかしてこいつは、おれの疲労の加減を知っていて、わざと暴れさせたというのだろうか……?
髪を撫でる指の感触の心地良さに、次第に瞼が重くなる。危うく火が点きかけた躰の火照りが、微温湯のような熱に包まれて、冷まされていく。

そして、数分が過ぎた後。

「寝るなよ、先に……」
頭の上から聞こえてくる穏やかな寝息。おれが寝るまで起きてるんじゃなかったのか?
それにしても、これはどういうことなのか。おそらく彼は、次に目が覚めた時はこんな出来事は綺麗に忘れてしまっているに違いない。おれでも、あれは全て夢だったと思うかもしれない。
おれの頭の下敷きになった左腕を、そっと曲げさせて、空いた空間にからだを寄せる。大切なパイロットの腕に負担がかかるようなことをさせるわけにはいかない。起こさないどころか、結局大暴れまでしてしまったという負い目もある。
気が付くと、窓に降ろしたブラインドの隙間から見える空がうっすら明るくなりかけている。おれは窮屈なシャツとボトムを脱ぎ捨てると、彼がせっかく提供してくれた安眠の機会を享受することにした。規則正しい呼吸の音は、おれをすぐに眠りへと誘ってくれるだろう。

おやすみ、零。良い夢を。
今夜こそ、あの約束のボトルを開けような。

初出2004年。ほんのちょっぴり手直し済み。うちの少佐には乙女回路が搭載されているようです。